新潟の新しい未来を考える会
目次
2021年12月12日 木村真三・小林茂講演会
講師 木村真三氏 小林茂氏
講師 菅直人氏 飯田哲也氏
笹口孝明元巻町町長講演会
講師 池内了氏 笹口孝明氏
2020年 コロナで活動休止
講師 金子勝氏 古賀茂明氏
2021年12月12日 第9回講演会
木村真三氏・小林茂氏講演会
新潟の新しい未来を考える会主催の講演会が12月12日午後1時から新潟市の新潟シルバーホテルで開かれました。今回は放射線衛生学者の木村真三氏と元読売新聞記者の小林茂氏を迎え、「フクシマから10年、チェルノブイリから35年 今、新潟で考える」をテーマに、講演や討論が行われました。東京など遠方からの参加者多く約140人が集まりました。
開会に当たり片桐奈保美会長が2021年度活動・収支を報告、「最近は何が起きるかわからないが、私の頭にはいつも原発があります。廃炉もできず、避難計画もずさんです。県民の7割くらいは原発はいらないと思っているのに、わからない力で動いています。原発はいらないと一人ひとり訴えることが生きている人間の責任だと思います」などと熱く訴えました。
愛媛県伊方原発近くに家がある木村氏はチェルノブイリに通い始め21年、訪問は70回を超えています。講演で木村氏はチェルノブイリ事故について「事故原因は核分裂制御の失敗、フクシマは原子炉冷却の失敗と異なります。しかし、プリピチャチ市の5万人をはじめ多くの住民は二度と帰れず、結果はフクシマも全く同じです」と強調、汚染され苦しむ現地の状況を報告しました。また、拡散した放射能に関し「私は北海道から沖縄まで大半の地域で原発事故の痕跡を見つけています。福島県を境に安全とは言い切れません」などと断言しました。
福島県双葉町出身の小林氏は福島原発立地の発端を国会議員・木村守江氏が参加した原子力平和利用国際会議(1955年)と指摘したうえで「東北のチベットといわれた過疎地で産業がなく、木村守江、佐藤善一郎(知事)、木川田一隆(東電社長)の3人が原発を推進しました。反対運動が起きにくく、住民が誘致したことも遠因です」と様々な資料を示し説明しました。さらに「原発マネーが入りましたが、町財政が厳しく1991年に原発増設決議に至りました」と指摘、事故から10年がたちモニタリングポストの説明会で、柏崎原発再稼働への不安の声が只見町、喜多方市、会津若松市から出ていることも紹介されました。
討論では、佐々木寛・新潟国際情報大学教授も加わり、汚染水の海洋投棄や甲状腺がんなどについて会場から質問がありました。県の検証委員会委員でもある木村、佐々木両氏に対し「避難問題では合同委員会を開くべきだ。論議を深めてほしい」などの要望が出されました。小林氏は「事故検証は本来、福島県庁がやらなければならない。新潟県の活動が福島県民を力づけています」と語り、佐々木氏は「原発事故は第二の敗戦と思っています。状況に流されず(反原発を)広げていきましょう」と締めくくりました。
2021年6月12日 第8回講演会
菅直人・飯田哲也講演会
講師 菅直人氏 飯田哲也氏
新潟の新しい未来を考える会の講演会が6月12日午後1時から新潟市の万代シルバーホテルで開かれました。今回のテーマは「3.11から10年日本のエネルギー政策のゆくえ」。東日本大震災の福島原発事故当時首相だった菅直人衆議院議員と環境エネルギー政策研究所の飯田哲也所長を迎え、講演や討論が行われました。コロナ禍 での開催のため細心の対策が実施され、会場に約130人が集まり活発な議論が交わされました。
開催にあたり片桐奈保美会長が挨拶に立ち「コロナ禍ですが、何もしない訳にはいかないと思い開催を決めました。若者が原発、政治に関心がないのも私たちに責任があります。未来の子孫のためにも原発を止めなければなりません。」などと熱く訴えました。
講演会では、まず菅直人氏が東京からリモートで参加しました。原発の現状について「原発は終わっている。10年間の依存率は平均3%。ただ二酸化炭素排出ゼロに絡み、再生エネルギーでは足りず原発が必要だという。ここが現時点でせめぎ合いになっている」と述べました。10年前の福島原発事故の関し「地震翌日の3月12日にヘリで現地に向かったことが批判された。しかし、その後の展開にうえで参考になった。とにかく全く情報が入らず、1号機の水素爆発もテレビで知った。」と説明しました。
さらに「15日に東電の清水社長が全員避難させたいと言ってきたが、その時わたしは小松左京の小説・日本沈没を頭に描いた。火事なら1週間で終わるが、原発は違う。ギリギリのところで命がけの作業のお陰で5000万人の避難を免れた。」と振り返りました。
再生エネルギーについては農地を利用する「ソーラーシェアリング」を提唱しました。
飯田氏は福島原発事故に関し「事故は4つ奇跡があったから、あの程度で済んだ。この日を境に日本人の意識が変わり、原発はなくすべきだという人が圧倒的になった」と述べ、世界の再生エネルギーの状況をスライドを使い説明しました。「太陽光の発電コストが10年で10分の1になり、世界では安い電源になった。今後も太陽光、風力を中心にエネルギーの大転換が起きる」」とし、「固定価格買い取り制度がずさんで、世界では死後になっているベースロード電源の考えを変えていない」などと批判しました。原発廃炉から地域を活性化したドイツの映像を流し「柏崎は廃炉を見据え、自立型の社会を目指す今がチャンスだ」と強調しました。
質疑応答もあいかわらず活発で、福島原発の汚染水放水についての質問に対し飯田氏は「汚染水は海に流さなくて対処できる。海外で放出しているというが、流しているのではなく出してしまっているのが実態だ」などと解説しました。
2020年12月6日 池内了検証総括委員会委員長 笹口孝明元巻町町長講演会
第7回講師 池内了氏 笹口孝明氏
新潟県の原発事故に関する検証総括委員会委員長の池内です。
2年前の2月に第1回の総括委員会を開き、以降は開いていません。来年1月末に開く予定になっています。この間、一年近くの間コロナ騒動があり、予定通り進んでいませんが、現状についてお話ししたいと思います。本日は自前のタウンミーティングとして、様々な意見を聞きながら検証作業をすすめ総括をすすめる上で重要な結節点になると思います。
福島事故について事故調査報告書は出されましたが、その後、推移の検証は政府も国会も行っていません。新潟県が福島事故の検証委員会を立ち上げたのは大きな意味があります。3つの検証態勢があります。「新潟県原子力発電所の安全管理に関する技術委員会」は事故原因、柏崎刈羽原発の安全管理をどうするかを検証します。それから「生活と健康への影響に関する検証委員会」は生活、健康にどういう影響があったかを調べます。また、「安全な避難方法に関する検証委員会」は柏崎刈羽原発で事故が起こった場合の安全で実効的な避難方法を検討します。私が委員長の「総括委員会」はその個別の検証を総括して知事に報告します。
3つの検証態勢については新潟県のホームページに載っています。米山知事がどう発言したかも出ています。「福島の事故の検証が終わらずして柏崎刈羽原発の運用はありえない、その検証は当然ながら柏崎刈羽原発が引き起こす様々な問題点がどうなるかということを調べなければならない。この3つの検証がなされない限りは再稼働の議論は進められない」(米山前知事)
花角現知事も基本的には米山前知事の考えを受け継いでいます。立候補の公約に書かれています。また、花角知事は報告書が出た段階で県民の意思をなんらかの形で聴く用意がある、それから最終的には原発のない社会をめざす、花角知事はそういっています。選挙向けではあっても公約は公約です。政治家としてこたえる必要があります。
検証のポイントは、福島事故の実態を把握し検証し、教訓を踏まえて新潟県原子力発電所に関する検証委員会として事前対策、災害の予防(防災)、事後対策として災害を拡大しない(減災)、具体的に防災、減災を検討して東電、行政の安全対策と県民の意識(私は覚悟といっています)を促します。
具体的には⓵深層防護の対策が徹底しているか。この深層防御というのはIAEA(国際エネルギー機関)が示したもので、事故が起きると原子力利用が進まなくなるから、これだけのことは押さえておこうと深層防護を定義し、第5層まであります。第1層、第2層は故障の拡大の防止、第3層は事故の拡大の防止、第4層では放射能の敷地内の封じ込め、第5層では敷地外に出た被害の防止を表し、事故の各段階でどう対応し防ぐかを示しています。実は原子力規制委員会の新規制基準は第4層前半までの技術的措置に限定しています。事故が起きたときのアクシデントマネージメントについては原子力規制委員会は基準を設けていません。第5層の敷地外に出た放射能による被害、つまり避難については基本的に対象外にしています。
(略)
②次に事故の勃発によって、どのような影響が地域で発生したか、しうるか③それらに対する県民の意識はどうか?県民はどう考えるか。
以上の3つのポイントを押さえ、ほぼ2年半の間検証作業を行ってきました。
技術委員会は2020年10月26日に「福島第一原発事故の検証」の報告書を出しました。これは福島事故で明らかになった技術的問題について、検証項目10を抽出しての各々にどういう問題があったかを整理しています。また、133の課題・教訓・対応状況をまとめています。対応状況は東電(事業主)から聞いたものをそのまま書いています。そのままでは検証に必要な作業になっていないと私は思います。この報告書、基本的には福島事故への検証で、柏崎刈羽の安全管理については具体的に言及していません。序文には「今後、柏崎刈羽原発の安全対策を行っていく」、結びには「柏崎刈羽原発の安全性については論議する」と書かれているのですが…。
2020年9月11日技術委員会議事録が公開されているので皆さんも読んでください。要するに県の事務局は「3つの検証は福島第一発電所事故の検証です。建付けとしては、3つの検証はあくまでも福島第一発電所事故の部分、柏刈羽原子力発電所7号機の今後の安全確認とは少し切り離して考えておりまして、今後は柏崎刈羽原子力発電所7号機の安全確認をしていきたいと考えております」といっています。事務局はこの検証は福島事故の検証にとどまり、柏崎刈羽原発の問題は当面の問題ではないとしています。
ところが、2020年10月26日NHK新潟NEWSで花角知事が「いったん福島事故の検証については区切りをつけていただいて、引き続き本来のミッションでお願いしている柏崎刈羽原発の安全性を確認する議論をお願いしたい」と述べています。これについても総括委員会できちんと論議したいと思います。
さらに柏崎刈羽原発は、福島より進んだ原発だといいますが、では具体的に両論併記の部分がどう解決されたか、見解を述べる必要があります。もし、両論併記のままでの報告であるとすれば、総括委員会としては柏崎刈羽原発の再稼働については意見が述べられない、と言わざるを得ません。
もう一つの問題ですが、タウンミーティングの問題については、県事務局は報告書がまとまってから県民説明会を検討するとしています。私は中間段階でのタウンミーティングをすべきであると考えています。県当局は早く報告書が欲しいということがあるのではないか。タウンミーティングでは宣伝合戦になるとか、実施方法の問題があるとかいいますが、リモートという方法も考えられます。検証委員会をコントロールしようという県の姿勢は県民の幸福と福祉・県民の安全と安心を目指す自治体行政でしょうか?日本という国は中央集権にどんどん流され、中央(政府)のいうことを忖度して先取りする方向になっていないでしょうか。折角、検証委員会という地方自治の精神に則ったシステムを立ち上げたのですから、しっかりやるべきです。
検証総括委員会で論議したいことは、①3つの検証委員会の論議の進捗状況を把握する②検証委員会ではカバーできない問題を論議する③東電の適格性④トランスサイエンス(予防措置原則)⑤県民の意見をくみ上げる手立て、この5つです。トランスサイエンス問題とは科学・技術では答えを出せない問題、科学では明確に答えが出せない問題に対して総括委員会では何らかの素材を提供して県民が参考にできるようにしたい。
また、検証総括委員会報告書の目標は柏崎刈羽原発再稼働の是非を提示することです。具体的には⓵技術委員会からの柏崎刈羽原発の安全管理の有効性の吟味②避難委員会からの柏崎刈羽原発災害時の避難方法の実行し得の吟味③生活と健康分科会からの原発事故による生活と健康への影響の具体的に吟味、を是非を論じる条件とします。以上のことを示さないと総括委員会の報告になりません。さらに原発事故による災害が起きた場合の責任問題。そもそも責任がとれるのか。県民の意志、覚悟も含めて問題を投げかけていきたいと思います。
最後にスケジュールについてです。これまでコロナもあって半年以上スケジュールが後ろにずれています。各委員会の中間報告から総括委員会として協議すべき課題を絞り込み、審議をします。特に第5層として実効性のある避難計画の構築、柏崎刈羽原発の安全対策の有効性確認はしっかり行いたい。タウンミーティングを実施して結果を各委員会にフィードバックするためどういうやり方があるのか、じっくり検討したい。でも、県の職員が動いてくれないといけません。2022年に総括委員会としての論議と執筆を考えています。どういう段取りになるかわかりませんが、世論の圧力も大事ですから、皆さんの協力をお願いします。
引き続き
笹口孝明・元巻町長講演要旨
私は平成8年から16年まで地元巻町の町長になりました。現在は家業の笹祝酒造に戻りました。巻原発住民投票はテレビ、新聞などで大きく取り上げられ、ご記憶の方も多いと思いますが、おさらいの意味でお話させていただきます。
巻原発計画は世界最大の柏崎刈羽原発とほぼ同じころに計画されました。しかし、その歩みは大きく違っています。1965年ころ、東北電力は土地ブローカーを使い、大型レジャーランドを造るという触れ込みで巻町角海浜の土地を買収しました。1969年、新潟日報のスクープで原発計画が明らかになりました。
その後第2次公開ヒアリングなどがあり、国の電源開発基本計画に組み入れられました。しかし、土地取得が難航したため、安全審査が中断したまま、その間、巻町は町長の一期交代が続き、選挙になると原発慎重派の町長が当選していました。
柏崎刈羽原発など日本で多くの原発が稼働しているなかで、巻原発が進まなかった最大の理由は土地取得が難航したからです。その土地問題も裁判で決着がついて1994年8月の町長選挙で「私には世界一の原発を造る義務がある」と発言していた(推進派の)佐藤町長が3選を果たしたことにより、原発問題が現実味を帯びてきました。
このとき、私たち町民は選挙の結果を受け素朴な疑問が沸きました。町民は本当に佐藤町長に巻原発の許可を与えたのだろうか。疑問が沸いた理由は、佐藤氏の選挙の戦い方は、町民から原発の話が出ると、「私という人間を信頼してほしい」と争点回避を行っており、その選挙結果は原発推進の佐藤氏の9000票、に対して原発慎重と反対候補の票の合計が1万600票で上回っていたことでした。
このため町民が必ずしも原発を推進しているとは考えられないと思いました。
そこで私たちは「巻原発・住民投票を実行する会」を立ち上げました。原発問題は民主主義に基づき、住民投票により住民意思を確認し、町民総意で町の方向を決めるべきだとして、会の方針を住民投票一本に絞りました。最初、数人で始め、本気であることを示す意味で、大きなプレハブ事務所を構え、常駐職員も置き、事務器、電話なども揃えました。住民投票は行政にお願いしてもやるはずがないと思っていましたので、会の名前に「実行する会」とつけて、「町民自主管理の住民投票をする」と決めていました。
しかし、町当局には事前に説明し、「住民投票を実施してください。しない場合は私たちが町民自主管理で住民投票をやるので、立会人派遣などを協力してほしい」と申し入れました。予想通り町当局に断られましたので、記者会見を開き、巻原発住民投票を町民自身で行うことを宣言し、町内にチラシもまきました。
この町民自主管理の動きに対して、原発推進派はこのままいけば原発ができるのに住民投票を実施されては困ると、ボイコット運動を展開しました。
一方、原発反対派は6団体がまとまり、住民投票で巻原発を止める連絡会を結成しました。町当局が体育館などの使用許可を取り消してきたので、カラオケ道場を借りたり、空き地に小屋を建てたり、巡回をしたり、かなりの困難がありましたが、何とか自主管理の住民投票を成功させました。この会場にいる近藤正道弁護士にもお世話になりました。 結果は、投票率45・4%、原発反対票が9854票で、佐藤町長の9000票を上回り、その後の巻町の原発問題を大きく左右することになりました。
この自主管理の住民投票の結果を受け、推進派は危機感を感じ、佐藤町長に巻原発敷地内の町有地を東北電力に売却するように申し入れました。町長は臨時議会を開きましたが、町民多数が議会に押しかけ流会となりました。その後、住民投票条例の実現を目指す町議会選挙、住民投票条例制定、町長リコールと続き、佐藤町長が辞任、その巻町長選で私が町長に就任しました。
そして日本初の住民投票条例に基づく住民投票は1996年8月4日に実施されました。投票率88%、原発反対票が61%で、巻町民は原発はいらないとの選択になりました。
巻原発敷地内の炉心に近いところに裁判の結果確定した町有地があります。住民投票の結果はこの土地を東北電力に売るか、売らないか、の問題でもあったため、私は記者会見で土地は売らないと宣言しました。本来であれば、巻原発をめぐる問題はここで終了する予定でした。しかし、原発推進派、東北電力は諦めようとはしませんでした。次の町長選に勝てば原発は造れると踏んでおり、私たちは再び危機感を強めました。
そこで自分たちでお金を出して、町有地を買おうと話し合い、町長の私に申し入れをしてきました。私は住民投票結果を受けて巻町を一日も早く原発の呪縛から解放したいと考え、敷地内の町有地を売却しました。価格は1500万円。1500万はみんなが出し合ったものです。
この件は裁判になり、一審、二審、さらに最高裁へと争われ、民意を尊重した町の勝訴になりました。その後、最高裁判決を受け2003年12月、東北電力は土地取得ができないため計画を断念、計画撤回を伝えてきました。この時点で30数年にわたる巻町の混乱と苦しみの根源がなくなりました。
次に住民投票に至る町民の変化についてお話します。
原発建設でとてつもない大きな仕事が町にくるとなると、利害関係が生じてきます。直接でなくても職場、近隣の人など直接間接に関わってきます。一般の町民は大人の対応として自分の考えを話すことができなくなります。
1994年8月の町長選挙で推進派の町長が当選し、議会も推進派が多数、土地裁判も決着がついていたので一気に原発計画が動きそうになりました。町民の多くが自分の考えを表明できないなかで、町民の気持ちと関わりなく、一部の人が原発計画を進めるようになっていくことに疑問を持つ町民がいると考えられました。この状況で住民投票を提案したわけです。
このため町民の関心は巻原発の可否に集中することになり、賛成反対のチラシ合戦が行われ、毎朝新聞各紙に5、6枚のチラシが入るようになりました。マスコミも二日に一度は巻原発を取り上げ、講演会が開かれ、資源エネルギー庁が講演会を行い、宣伝カーも動き回りました。
住民投票が成功したのは、住民が判断する方が正しいという意識があったからだと思います。その後の町長選、リコールなどで、だんだん自分の意見をいえるような状況を獲得したともいえます。ある記者からは「最初は町民にマイクを向けても10人に一人しか答えなかったのが、やがて10人に4、5人が応じてくれるようになった」と聞きました。
町民一人ひとりの勇気が生んだものと考えています。日本初の住民投票から24年になります。スリーマイル原発事故、チェルノブイリ原発事故が広く知られるようになり、原発は必ずしも安全でないことが知られていました。一方、原発の安全神話を信じている国も多数ありました。その状況の中で住民投票が行われましたが、1969年の新潟日報のスクープ記事から住民投票まで27年間の長きにわたり原発問題に悩み、情報を獲得して1人ひとりの一票で最後にノーを選択したと思います。
2011年の東日本大震災で福島原発事故が起き、多くの人の人生を狂わせました。巻原発はラッキーな面が重なりましたが、福島の事故を見て巻の町民は「巻原発ができなくてよかった。自分たちの選択は正しかった」と確信を深めると同時に福島の人々に心を痛めています。自分たちの将来は自分たちが決めたことに達成感を感じていると思います。
かつて評論家の高木仁三郎さんは「原発はトイレなきマンション」と言っていました。自分の廃棄物の再生処理ができない産業は存在してはいけないと私は思っています。原発はあまりにも多くの問題を抱えているのです。
第2019年12月1日6回 金子勝、古賀茂明両氏の講演会報告
新潟の新しい未来を考える会主催の講演会が12月1日午後1時から新潟市の新潟シルバーホテルで開かれました。今回は経済学者で立教大学経済学研究科特任教授の金子勝氏と元経済産業省官僚の古賀茂明氏を迎え、「新潟から未来を切り拓こう」とメインテーマに、講演や討論が行われました。会場には会員でない一般の人の参加も多く約320人が集まりました。
講演会に先立ち、3人のおじさんバンド「なじらねじょんのびーず」が、バンジョー、マンドリン、ギターを奏でながら「どこにいればいいんだろう」「ヘイ ヘイ ヘイ」など4曲を披露しました。安倍政権を皮肉るトークを交えながら会場とも一体となって歌い会場を盛り上げました。
開会に当たり片桐奈保美会長が挨拶に立ち「私の軸は原発反対です。先日来日されたローマ法王が勇気を持って「原発はやめてほしい」と言われ心強く思いました。小泉元首相も言われたように右も左も関係なく、将来の子供たちのことを考えたら次世代にあんな危険な原発を残していけないと心底思います」などと熱く訴えました。
講演会では、まず金子氏は総理主催の「桜を見る会」から始まり、モリカケ問題、関電マネー問題などの真相を次々と解説しました。「桜を見る会は抗弁も中身もでたらめだ。メディアがそれを垂れ流しにしている」と批判、関電マネーについては「金沢税務署の告発がきっかけで森山助役を経由して3億2千万円がばら撒かれた。社内調査などに元検事らが関わっている」などと指摘、「第一次安倍政政権のころ、2006年の佐藤栄佐久福島県知事の事件から原発拡大路線に切り替わった」「データの改ざん、証拠のねつ造などは原発では当たり前で、背景に原子力村がある」などと述べました。
古賀氏はスライドを使いながら官僚の公文書4つの基本哲学や公文書公開6原則を紹介しました。「官僚にとって公文書は国民の財産ではなく役人の財産。官僚が文書を残すのは想像力が欠けているからだ」「公文書は原則公開しない。公開するときも時間をかせぐのが安倍首相の哲学」などと強調。安倍政権について「安倍さんはウソを堂々といえる。これだけ堂々といえる人はいない。国民はすぐに忘れるという哲学も持っている」と皮肉交じりに締めくくりました。
佐々木寛・新潟国際情報大学教授と3人での討論では、金子氏は新潟について「自立して再生エネルギーをつくり配分する分散型社会を目指すべきだ」と提案、古賀氏は「原発がなくても送電線の空きを使い再生エネルギーを増やせる。観光は文化、食などポテンシャルが高く伸びるはずだ」などと述べました。
懇親会には約120人が参加、講師らと写真を撮ったり、懇談したり和気あいあいと交流を深めていました。